さようなら胡屋歩道橋
今日の琉球新報朝刊によると、胡屋歩道橋は「1983年2月に現在の形で設置され、約24年間利用されてきた」とあり、読みようによっては「1983年2月まで胡屋十字路に歩道橋はなかった」とも受け取れるが、あそこには少なくとも1970年12月20日までには歩道橋が架けられていた。というのは、コザ事件で焼け焦げになった車輌が転がっている24号線(現・国道330号線)を胡屋歩道橋の上から家族で見物した記憶がはっきりと残っているからだ。実家の押入を漁れば、そこから撮った写真が出てくるはずだ。
でも、この歩道橋がいつごろ胡屋十字路に架けられたのかは記憶が曖昧だ。私は1967年の4月からセンター通り(現・中央パークアベニュー)近くの家を出て今の沖縄市一番街を通り抜け、喜友名百貨店(今は何になっているのだろうか?)近くの横断歩道を渡り、更にコザ警察署(現・沖縄警察署)前の横断歩道を渡って幼稚園に通っていた。その当時、歩道橋があれば「歩道橋を渡りなさい」と母に言われ、私はそれを守っていたはずなのに、横断歩道を渡った記憶しかないから、私が年少組だった1968年3月まで胡屋十字路に歩道橋は架けられていなかったのではないかと思う。
私の通っていた幼稚園は1968年度に胡屋から嘉間原に引っ越したので、年長組になってからは胡屋十字路を通らずに通園するようになった。更にその年の7月に家がセンター通り近くから京都観光ホテル近くに引っ越したことに伴い、私はバス通園になった。ちなみに利用していたのは幼稚園のバスではない。母から財布に1セント玉を2枚入れてもらい、中の町から嘉間原まで路線バスで幼稚園に通っていた。バス賃は片道1セントだったはずなのに、約8ヶ月間で2回だけ運転手に「1セントじゃ足りん」と不機嫌な声で言われ、泣きそうになりながら「でも、これしかもらってないのに」と通園バッグから取り出したガマ口を広げて見せたことがある。2回とも運転手は舌打ちした後「だったらいいよ」とか何とかモゴモゴ言いながら、そっぽを向いた。私はこの2人の運転手の顔を今でもはっきりと憶えている。
バスに乗っている間中、私は大きなハンドルやシフトレバーを操作する運転手にかぶりついて、車外の景色を見ることが全くなかった。その間に胡屋歩道橋は完成したのだろうか。それよりも何よりも、段々と「嘉間原」がいつ「嘉間良」になったのかということの方が気になりだしてきた。テープが擦り切れていたのか、スピーカーの性能が悪かったのか、とにかく聴き取りづらかった車内アナウンスだったけれど、1969年3月までは確かに「次はカマハラ、カマハラ」と案内していたのだが。
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